8/8 活動再開

お久しぶりです。学部2年の鎌田です。梅雨もすっかり過ぎ去り、東京もいよいよ夏本番という感じですね。

ついに先日、待ちに待った活動許可が下りました!どうやら遅ればせながらも、UTFFにも夏が来たようです。

さっそく、製作途中のまま放置されていたUTFF19の製作を再開します。今年は大会が中止となってしまったので、次の大会まで時間は十分にありますが、甘えることなくてきぱきと製作に励みたいです。

 

追記

この前、「17歳のウィーン」という映画を見ました。ナチス=ドイツの魔の手が伸びようとしていたオーストリアのウィーンを舞台として、田舎から働きに出ていた青年フランツが、恋を通して成長していく物語です。

煙草屋で働きだしたフランツは、客である心理学者フロイトと親しくなります。フロイトに恋をするように勧められたフランツは、当初は恋愛がどんなものなのかわかりませんでしたが、すぐにあるボヘミア出身の女性アネシュカに恋します。しかし、この恋がなかなか一筋縄にはいかないのです。

移民であるアネシュカはしたたかです。興行屋の愛人となり、踊り子をやります。ナチスが進駐すると、彼女はナチス士官の愛人となります。フランツは、彼女が興行屋の愛人になっていることを知ると、愛を売る彼女を罵倒しました。彼女を深く恋していたフランツにとって、アネシュカが愛を安売りするのは、自分の彼女への愛がもつ、カネには到底換算できない価値が、彼女自身によって否定されているようで許せなかったのでしょう。しかし、彼女がナチス士官の愛人となったときには、フランツは何も言わず、諦めの表情を浮かべただけでした。彼女が進んで愛人になろうとしているわけではなく、貧しい生活のなかで愛人になるという妥協をしていることに気づいたからだと思います。

アネシュカと自分が結ばれ得ないことが明白になったとき、どうしてよいか分からなくなったフランツは、フロイト博士に答えを求めます。そこでフロイトはこう言うのです。「人は答えを見つけるため生まれるのではない。問いかけるためだ。」と。

自分の恋する女性が生活苦から愛人になるフランツのように、大人になる過程で私たちはたくさんの不条理に出会います。理不尽さに揉まれるなかで、人はどう生きるべきかについて、今までの考えがガラガラと崩れ、なかなか頼るべき答えが見つからないことに幻滅するかもしれません。そこで明確な答えが見つからないことを受け入れる、すなわち諦めることは良いのです。むしろ諦めることは、大人になった証です。それは、ちっぽけな自分の枠組みに、世界は収まらないことに気づくことだからです。しかし、そこで問いかけることをやめてはなりません。なぜなら、自ら問うことをやめた瞬間に、その人は状況に流されるだけの一分子となってしまうからです。ちょうど、時世の流れにさらわれて、いとも簡単にナチズムに前ならえをした多くのウィーン市民のように。

 

 

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